#02 – 喧嘩売りの少女

最近、冴えないことが多い。「冴えない」という言葉が本当にしっくりくる程に冴えない。

昨年夏にコロナに罹患してから現在に至るまでまるで倦怠感が取れず、体調が芳しくない。肥満のエキスパートだからというのも関係しているが「歳をとった」ということの表れなのだろうか、若い頃と違って、体の不具合の治りがあまりにも遅過ぎるのだ。もう1年以上経過しているのに、体調不良が治らない。先日健康診断に行き、その際には特に問題はないとのことで、大事に至らず胸をなでおろしたが、何故こんなにも体が動かないのだろうか。不思議でならない。テレワークを週4日行うことはクビになってもおかしくないレベルで違法なのだが、良い意味でユルい職場にいることが出来ていて心から感謝している。今の現場で一生のんびりと派遣社員を続けたいと願うくらいである。ちなみに例のワクチンは一度も打っていない。「虚弱体質」という粗大ゴミを遺伝という形で父親から受け取らざるを得なかった私には分かる。打とうが打つまいが、罹患する時は罹患するし、症状が酷くなることも往々にしてある。全く嬉しくはないが、母親は素直に打って、長期間に渡り高熱にうなされ続けた。私の経験に基づいた予想は見事に的中した。

子どもの頃は、誰も信じてもらえない程に活発だった。体重も40kg台でシンデレラ体重だった。嘘ではない。マラソン大会では学年で3位だったこともある。今なんて駅の階段の上り下りだけで、動機・息切れ・きつけの三重苦に見舞われるというのに。ファザコン・マザコンのコンボ&子どもに暴力を振るい支配下におこうとする自己愛性モラハラ・ハゲデブ父親と、社会性も経済力もなく「THE 昭和中期の女」の母親との間に生まれ、お察しの通り、自宅では素直に幸せを感じられることは数多くはなかったが、純真無垢で自覚は無いけれど家族や家以外のことに希望を抱いていたからなのうだろうか、外では凄く明るい性格だったと思う。それと合わせて、面白くないことがあると平気で人を殴っていた。父親から受けた家庭教育の成果を、外部で発揮していたのだ。マッチではなく、まさに喧嘩売りの少女だった。ちなみに非行は一度も行ったことはない。しいて言えば、中学時代に学校に行くフリをして、ゲーセン通いをしていたことくらいだろうか。警察のお世話になったことはない。人様に迷惑をかける非行など、常識云々の前にかったる過ぎてやりたくないと思っていたからだ。親からモラハラを受けている子ども部門では優秀な方だったと思う。

今これを書いていて、売ったものが「マッチ」ではなくて良かったとホッとしてしまった。もし私が売っていたものがマッチだったとしたら、意味不明に100歳まで生きた父方の毒祖母に抱えられて天国へ誘拐され、今頃は強制的に介護をさせられながら、身に着けても全く役に立たない毒祖母愛用の骨伝導補聴器に向かってシャウトする最悪の生活を送っていたに違いない。これは紛れもなく、殺人事件である。悪夢の続きを見させられるところだったのだ。だけどマッチ売りの少女は確か、手持ちのマッチすべてに火をつけたから、おばあさんが迎えに来て、一緒に天国へのぼっていったんだよな。ということは、私が人を殴った段階で毒祖母が目の前に現れていたとしたら「金輪際顔を合わせたくない。」という理由で、その時点で私は喧嘩売りの少女を卒業できたかもしれない。だが、安易に想像がつく。私が人を殴って姿を現したとしても、私の心配をするのではなくて、こしあんがぎっしり詰まった最中を頬張りながら、金の心配をしていると思う。無駄に我が強く、耳が遠くなってしまったことを認めたくないが為に固定電話にかかってきた電話に出て「無言電話だ!」と怒鳴るのだろう。孫の存在なんてもはや空気である。ちなみに父方の毒祖父は亡くなって20年以上経つが、未だに仏様の手のひらでコロコロ転がされ続けていることを切に願っている。私の目の前に登場することすらも許されないのだ。だが、それで良い。顔を見ても、愚痴しか浮かばないのだ。

更に書いていて、実際はとても重大だけど、修正するのが面倒臭いのでそのまま行こうと決心したミスに気がついた。私が喧嘩売りの少女をやっていた頃は小学生~中学1~2年の頃なのだが、天国への誘拐を試みた毒祖母はその頃はまだ存命だった。勝手に殺して済まないと思いつつ「どっちでもいいや。」という言葉が脳裏をよぎった為、このままにしておく。墓参りをおそろかにしても特に罪悪感の湧かない相手である。もうどうでもいい。私の小学校卒業を機に嫌々同居して、進学先の中学校まで変えて、お前らのせいで暗黒の3年間を強制的に過ごすことになったのだ。これくらい許せ。寧ろそこから無事に高校へ進学したことを褒めて、それから祝い金を出せ。

こんな連中の血を引いてしまっていることに気づき、今までに何度絶望しただろうか。幸い、喧嘩売りの少女は高校進学前に無事卒業できたのだが、中学に上がってからだったのでそれでも遅い方だと思う。如何なる理由でも人を殴ることは良くないというのは至極当然の話であり、人を殴ってしまったことを美化するつもりは毛頭ないが、今になって思うのは、あまりにも下手くそ過ぎるけれど、私にとって人を殴る行為というのは、その相手または相手に関係する人達に「SOSを出していた」ということである。

THE 昭和中期の女である母親のかつての口癖は「家のことを外に話すな!」だった。それがあって、私は家で理不尽に親に殴られていることを誰にも言わなかった。悔しいので、一応書いておく。「母親が外部の人間に言わせなかった。」という表現が正しい。私が小学生の頃は、教師が教育の一環として児童に手をあげることは普通にあったし、今ほどに「体罰」について問題視されていなかったという時代背景もあると思う。私が実際に起こっていることを周囲の大人に打ち明けたとしても、外面の良い両親を見れば「きちんとしたご両親じゃない。」、「どこも問題なさそうだけど?」、「大袈裟じゃない?」などと傍目だけ見て即座に交わされていたことだろう。自分調べだが、似たような理由で心に傷痕を残したアラフォー・アラフィフは少なくないと勝手に思っている。その点、今はフリースクールが充実していたり、児童・生徒が学校で体罰を受けたとなればニュースに取りあげられるなど、正直羨んでいるところもある。いい時代になったなぁ。今みたくSNSが発達していた時代だったら、少し違っていたのかなぁ?とか。父親も同じく私を殴ることでSOSを発信していたのかも知れないが、明らかに相手が違う。典型的な内弁慶である。これでは、誰も気づくはずがない。自分の子どもどころか、人を傷つけても自分は助からないのだ。父親が将来このまま死んでいくと思うと、毒祖父母のことも踏まえて1%くらい可哀想と思う反面、99%愚かだとも思う。私はその点、自分の代で止めることが出来て良かったとも思う。

このブログを読んでくださっている方は相当なもの好きだと思うが、もしかしたら若い方で、同じ様な悩みをリアルタイムで抱えている方がいるかも知れない。そんな方に対して、言っておきたいことがある。

血がつながっているとしても、家族は別人。

毒親は毒親、あなたはあなた。それで良い。今は難しくても、将来自分の人生を歩めるようになるので、今心が苦しいと感じているのだとしてもいずれ解消する。自分のブログだ、偉そうに言っておく。余計な心配すんな。

本当はもっと早く家を出て「おひとりさまライフ」を満喫したかったが、親が病に倒れ、面倒見を強いられた。その為長年実家住まいだったが、いくら老いて丸くなったとはいえ、年寄りライフに付き合うのは限界がある。そういう意味では、私はまだまだピチピチである。勘違いだと指摘されてもいい、アラフォーはまだまだ若いのだ。

私は近日この京都の寺院に匹敵する築年数の家をついに出る。そして二度と戻るつもりはないし、親とも最低限のコミュニケーションで済ませるつもりだ。幼稚園の園服を脱ぎ、真新しいランドセルを背負った時と同じ様な気持ちでスタートを切る。今後、おひとりさまライフの様子などもこのブログで書けたらと思う。きっと楽しいに違いない。第二の中学生になったとしても、もう喧嘩売りにはならないだろう。仮になったとしたら、相当ヤバいオバサンである。いよいよ警察も出て来る。だけど、そんなことはもうないだろう。約40年間、踏ん張ってきたのだから。

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